トスカーナの緩やかな丘に囲まれた美しい街シエナは、トスカーナ州シエナ県の県都でもあります。1995年には、歴史地区全体が世界文化遺産に登録されました。
市街は、街の中心となっているカンポ広場から丘の上に向かって放射線状にのびているvia di citta'、banchi di sopra、banchi di sottoの3つの通りが街の骨格となっています。
また、古くから金融都市として発展した街には、世界最古の銀行 モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ (1472年創業)の本店があります。
パリオ (Palio)
パリオは、年に2回(7月2日、8月16日)行われる地区対抗の裸馬レ-スです。
イタリア国内で行われているパリオの中で、世界的にもっとも有名なものが、このシエナのパリオです。
裸馬のレースに参加できる権利を持っている17のコントラーダとよばれる地区が、カンポ広場で競い合います。
元々は59のコントラーダが存在していましたが、現在残っているのは17コントラーダです。
17のコントラ-ダには、皆名前が付けられています。
アクイラ(鷹)
ブル-コ (幼虫)
キョッチョラ (カタツムリ)
チヴェッタ (フクロウ)
ドラゴ (ドラゴン)
ジラッファ (キリン)
イストリーチェ (ヤマアラシ)
レオコルノ (ユニコ-ン)
トッレ (塔)
ルーパ (雌オオカミ)
モントーネ (羊)
ニッキオ (貝殻)
オカ (ガチョウ)
オンダ (波)
パンテラ (ヒョウ)
セルヴァ (森林)
タルトゥカ (亀)
ゴシック末期の国際ゴシックの美術が栄えたシエナは、ルネサンスのフィレンツェと肩を並べる芸術の中心地でもありました。そのため、フィレンツェとは常にライバル関係にあり、酷い時には戦争が勃発しています。
シエナ大聖堂は、元々ライバルのフィレンツェ大聖堂をしのぐ大規模な聖堂を建設する予定でした。
9世紀頃には、現大聖堂の位置に小規模な聖堂なるものがあり、それを立派な大聖堂へと改築しようとしたそうです。しかし、構築途中で様々な不都合が出てき たため、一層の事、新しいファサ-ドを違う位置に造ってしまおうということになり、14世紀の初期ごろから、この新ファサ-ド計画の着工が始まっ たのでした。
し かし、新ファサ-ドの着工開始後しばらくすると、街はペストの流行に襲われ、住民の2/3が亡くなってしまいました。そのため、新ファサ-ドを構築してい くために十分な人手も無くなってしまったのです。
結局、新ファサ-ド計画は未完に終わり、住民の関心は既に形となっているファサ-ド(現ファサ-ド)へと 向いたのでした。こうして、再び手入れを施された後、今の大聖堂の形にとどまったということです。
この未完に終わったファサ-ドは、現大聖堂の側面、鐘楼(鐘つき塔)のやや後部あたりから90度に曲がった延長線にあります。まるで大きな門、もしくは壁のように聳え立つこの未完ファザードは、シエナの繁栄と挫折をドラマチックに物語っているようです。
カンポ広場 ・ プッブリコ宮殿 ・ マンジャの塔
パリオが行われることで有名なカンポ広場 は、ヨーロッパでも有数の魅力ある広場として知られています。
ナイフによってすえられた手作りレンガが敷き詰められた広場は、九つの帯状の石灰華で放射状に区分されているのは、ノーヴェ領主政府1287ー1355(ノ-ヴェはイタリア語で9のこと)を記念したデザインとなっています。
このカンポ広場の九つの帯状の焦点となる位置にプッブリコ宮殿 (市庁舎)があります。
このゴシックとバロックが融合した建物は、長い間シエナの政治の中心地となっています。
この宮殿の中には、シエナのシンボルとされている「ローマの雌狼と双子」 の金色の像があります。
この像は、1430年ジョヴァンニとロレンツォ・ディ・トゥリノによって製作されたものです。
ローマの雌狼と双子とは、ロムルスとレムスの双子に雌狼が乳を与えている像であり、この像はローマのいたるところで目にすることができます。
この像がシエナのシンボルであることには伝説があります。
大人になったレムスとロムルスは、王の座をめぐって争い、事の末レムスはロムルスに殺されてしまいます。レムスにはセニウスとアスキウスという二人の息子 がありました。2人は ロムルスの怒りから逃れるため、祖国ローマの紋章である。「双子に乳を与える牝狼」の印を持ってトスカーナの丘にたどり着き、シエナを建国したのだといわ れているのです。
建物に隣接する塔は、マンジャの塔 と呼ばれています。
この名の由来は、時を刻む鐘が機械化されるまでこの鐘を打ち続けていたジョヴァンニ・ディ・バルドゥッチョのあだ名「マンジャ(マンジャ・グアダ-ニ 道楽者)」から来たものです。
プッブリコ宮殿の対になる広場反対側には、ガイアの泉 があります。
これは1858年テイト・サロッキが、1419年ヤコポ・デッラ・クエルチャが施したガイアの泉をコピー製作したものです。ガイアの泉のルーツはかなり古く、14世紀に完成したガイアの泉の史料はほとんど残っていません。
元々、遠く離れたスタッジャ地区から水を引くため、ジャコモ・デ・ヴァンニ・ウゴリ-ノがおよそ8年かけて地下水路を掘ったことに始まります。現在でも 「浄化槽」と呼ばれえるこの水路は、レンガで覆われたトンネルの中を水が流れていて、技術的・芸術的にも大変興味深いものです。この水路の終着点となるの がガイアの泉です。
食・特産品
イノシシのサラーメ、ラード、生ハム、臓物のクロスティーニ、インゲン豆のスープ、野ウサギのソースやイノシシのソースのパッパルデッレ、高級牛キアニーナ肉など。
アーモンド生地、スパイス、砂糖漬けの果物で作るパンフォルテ、カヴァッルッチなどのお菓子があります。