Tricarico - APT Basilicata マテラ観光ガイド
1926年からマテラ県の県庁所在地となったマテラ市には、石器時代から現在にいたるまでの歴史、芸術、文化、そして数々の伝統が溢れています。
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 マテラ県の県庁所在地マテラ市を訪れ、この街の持つ類まれな、歴史、芸術、文化、そして数々の伝統に触れたならきっと深い感銘を受けることでしょう。この稀有な街に石器時代から現在にいたるまでに人類が住み続けて来たことは、ムルジャ高原を取りまく村落や、リードラ国立博物館に保管されている数多くの考マテラ古学発掘品を見ればあきらかです。この街に古代から残る魅力に富んだ地域"サッシ"は、世界でも比類ない都市形成の例であり、ユネスコ世界遺産に登録されている通りです。街には100を超える岩窟教会があり、その多くには今もなおラテン様式やビザンチン様式で描かれたみごとなフレスコ画が残っています。孤独な修道士達の神秘主義の力が結実した宗教芸術なのです。さらに、マテラ市近郊の町々にも又それぞれ特有の史跡地区、人々の努力と苦労を物語る古代から続く道、伝統、民族的なお祭、宗教行事、素朴ながら心をこめたもてなし、美味しく風味良い料理といった魅惑的なものが脈々とい息づいています。太古のままの自然環境や砂浜の続くイオニア海岸の素晴らしさ、渓谷や修道院、白く浮かび上がった幽谷などの美しさを誇るこの地方は、訪れる人々の心を魅了するに違いありません。

州:
バジリカータは、昔はルカーニアという名で呼ばれていたイタリアでは小さな州の一つです。西(サレルノ~アヴェリーニ)はカンパニアと境を接し、北と東(フォッジャ~バリ~タラント)はプーリア州と接し、南(コセンツァ)では、カラブリアと隣りあっています。またティレニア海は州の南西(タ-ラント湾)に接しています。全面積は9.992平方キロメートルでイオニア平野(8%)を除き殆どが山と丘です。マテラ県は31の市町村から成り、州の南東地域に位置しています。マテラ市からイオニア海までは焼く35キロメートルで、バジリカータ州の5大河川(ブラダーニ、バセント、カヴォーネ、アーグリ、シンニィ)がイオニア海に流れ込んでいます。

マテラマテラ:
マテラ(海抜401M)は先史、有史時代からの独自な痕跡をいまだ残しています。 ボエニ戦争(ローマとカルタゴ間の戦い)の時代までマテラはメタポントやへラクレア(イタリア南部の古代都市)から逃れてきた人たちの隠れ場所であったのではと考えられています。その為、おそらくマテラという名は、これらの都市名の頭文字(Met-Era)を合体したものからついたのかもしれません。あるいは又、よくいわれるように、"岩の山"を意味する"mata"が変化したものとも考えられます。また別の説によれば、街の歴史は、マテラがApulia (アプリア)の一部として、AC251年にMetello(ローマ人執政官)によって建設されMatheola(マテオラ)と命名されたということで、このことは9世紀になって確認されています。
次々に支配者が交代しFersinando di Aragonaによりトラモンターノへと譲与されジョヴァンニ カルロ トラモンターノ伯爵の支配となりましたが、彼は農民達に対する残酷な仕打ちの末、人民により殺されました。1514年12月29日でした。マテラは、1663年‐1806年まで州の首都でしたが、この年ジュゼッペ・ボナパルテが首都をポテンツァに移しました。 マテラは大司教が在留する街で、13世紀に建てられた大聖堂がそびえ、サン ドメニコ、サン ジョヴァンニ バッティスタ、サン フランチェスコ ダッシジ、サンタ キアラ、プルガトリオ、サン フランチェスコ ダ パオラ他、各時代の様式を伝える素晴らしい建築の教会が多く残っています。 1926年16月6日から県庁所在地をなりました。 古代から残る岩の地域"サッシ'とそこに向かい合うムルジュア平原は、現在、全人類にとっての重要な文化財として、ユネスコ世界遺産に登録されています。。

岩窟教会:
マテラのムルジア平原の特殊な性質と形態の地盤は、8世紀から13世紀にわたって逃れてきた修道士達により、自分達の母国に存在した修道院や教会と同じものを作るのにマテラの古代からの家や洞窟はまことに適した条件であったことから、この地域は大きく発展しました。マテラの地には130もの岩窟教会がありますが、いくつかは完全に地中に掘られ、また幾つかは岩を掘りぬいたものに外側は各種様式の建築物で覆ってつくられていて、ラテン様式、ギリシャ/ビザンチン様式の修道院文明がマテラにおいて幾世紀にもわたりその合流点として発展し続けたことの証となっています。



"トラモンターノ"城(16世紀):
1501年に、より安全に暮らせる居城を欲したジョヴァンニ カルロ トラモンターノ伯爵により建設されました。ナポリの新城と同様のものになるはずでしたが、1514年12月29日彼は暗殺されてしまったため、この城は未完成のままとなりました。

大聖堂:
大聖堂は、2つのサッシ地区を見下ろすように聳え立っています。大聖堂が建てられる前は、サン ユースタッキオ教会がありました。素晴らしいプーリア風ロマネスク様式に作られており、壊されたメタポントの神殿から運ばれたぺディメントが祭壇にはめ込まれています。フレスコ画はナポリ派のものです。モンテスカリオーソ出身の彫刻家アルベルト ペルーシオ(1534年)による石のプレセピオは大変興味深いものです。 アンドレア大司教は、1230年に大聖堂の建築を開始し1270年に完成しました。マテラの大聖堂は3身廊で、芸術と信仰が完璧に融合したものとなっています。芸術は人間の技術の最高のものを表現しており、信仰とは時の移り変わりにかかわらず変わらないということを表すものなのです。

D.リドラ国立博物館

当博物館の名は、医者としてまた考古学者としてヨーロッパでも広く有名であったドメニコ リードラの名にちなんで付けられました。彼はバジリカータ州の小さな町フェランディーナに生まれ、1932年にこの世を去りました。リードラはマテーラ中を探検しましたが、特にティンマリ地域に関心を持ち、考古学上多くの多くの重要なものを発見しました。 1910年彼は当博物館を創設し、後日イタリア政府に寄付しました。 現在博物館は、いくつかの広い部屋に分かれており、出土品の発掘場所毎に名付けられた部屋に展示がなされています。


7月2日SSブルーナの祭り:
マテラ司教から法王の座についたウルバーノ6世は1389年7月2日にを聖母マリアの訪問の日と定めました。おそらくマテラの人々はこの大切な記憶に留めるためSSブルーナのお祭を7月2日に行うことに決めたのでしょう。SSブルーナの祭りはその起源を古い昔に遡ります。 お祭の内容は盛りだくさんで華麗です。 夜明けに始まる"羊飼いの行列"装束に身を包んだ騎士による"騎馬行列"、当地の芸術家によって製作された紙張子の"凱旋馬車"などがその主たるもので、この馬車に熱狂した群集が飛びかかって破壊してお祭は頂点に達します。この群衆の中には外国人の姿も見られます。素晴らしい打ち上げ花火がムルジア平原に輝き、お祭はその幕を閉じるのです。


マッジョの祭礼:
マッジョの祭礼は原始的な樹木の花粉の交配の儀式という神秘的な魅力を秘めたものであり、その起源は自然の恵みを祝う農村信仰に発しています。数千年の時が経過しても、ペンテコステ(5月祭)の日とその翌日の2日間、守護神サン ジュリアーノを讃えて毎年行われる祭りの行事の中で、そのオリジナルな形は守り続けられてきました。これは古風な、鎮魂の儀式であって、人々の心の中に深く共感をよぶものです。 祭りはキリスト昇天祭の日に始まります。木樵り達の行列はモンテピアノの森へと向かい、そこで一番高く真っ直ぐで強靭なオークの木を"マッジョ"として選び、注意深く切り倒しますが、性格にためらいなく切っても、斧が木樵り達の恐怖の念をいだかせるかのように見えます。そうして、大きな丸太が切り出され、樹皮が剥ぎ取られて、すべすべになります。 復活祭の日曜日に、別の農民グループは、ガリボリ・コニャートの森に出かけます。そして、一番葉の生い茂った西洋ヒイラギの木を切り出して、"マッジョ" の花嫁であるチーマを決め、すぐにサン アントニオ広場へと運び人々は祝って歌い踊るのです。そのあいだに、"マッジョ"は雄牛にひかれ農民や木こりに従われて村の反対側の入り口から運び込まれます。これで復活祭のあとの火曜日に村の中心広場ラルゴ サン ヴィートで行われるマッジョとチーマの接ぎ木の準備はすっかり整いました。婚礼はこうして祝福されます。 結婚の愛の歌が、大きなこの人民の祭りの雰囲気を盛り上げ、カテドラルからは大きい蝋燭を頭にのせた少女や若者の作るサン・ジュリアーノの行列がこの結婚を祝って出発します。この祭が頂点に達するのが、先ず"チーマ"に隠されているタ-ゲットを探し当てることと、そしてその日の英雄に変わり"マッジョ"の頂上40メートルまで攀じ登ることなのです。

アッチェットゥーラ:
ギリシャ大植民地時代から既にあったアッチェップトーリアという町が起源。周囲には、ルカーノの代表的な山々、即ち、レ マンケ、ガリボリ(1100M)、モンテピアノ(1141M)ヴァッレフレッダ、テンパコルタリエなどが聳えます。アッチェットゥーラはモンテカスオーソの伯爵ロベルトにより906年に記された証書に記されています。

アリアーノ:
6世紀から7世紀にかけて創設された町です。"Paesidium Allianum"というもとの町の名前は、古代の町の所有者Alliusの名に因んだか、または一箇所だけが開 かれている形の要塞に因んだものです。 1935年には、カルロ レーヴェが、政 治的理由で追放されてアリアーノに滞在し、"キリストはエヴォリにとどまりぬ" という本の中で村の生活環境を描いて、アリアーノの名前を不滅のものとしまし た 。

メタポント:
メタポントは、ギリシャとローマの戦争の中心地となり、後にハンニバルがローマ人と戦った戦場となりました。ピタゴラスのこの地に生活し、Foro delle Museeにて亡くなりました。輝く古代の名残は、Tavolo Palatine(ヘラ神に捧げられたドーリア式神殿の柱列32本のうち15本が残る。紀元前6-5世紀)にみられる通りで、まだなお古代劇場や古墳など聖域とされる多くの遺跡が続々と発掘されています。

ミリオニコ:
ギリシャ植民地時代にできた町です。Crotonatiの競技者として知られたMilone の名からか、又はピュロスの将軍であったMiloneのいずれかの名から名前が付け られました。後者の説のほうが確かなようです。封建的な城(Malconsiglioとい われる)は、 1481年に起こったアラゴンのフェルディナンド一世に対する男爵の謀反の司令部となりました。ミノーリ(Minori)の元修道院であった教会は"Cima da Conegliano"のポリプテイクが保存されています。

モンテスカリオーソ:
非常に古い町です。岩の多い丘の上に昔モン カヴェオスス(Mon Caveosus)という名で呼ばれた町があり、その名からモンテスカリオーソと命名されました。サンタンジェロ修道院には、多くの部屋が造られていて、そこでは長い間南イタリアにおける修道院文化が形成されてきました。" Sidus micans"(輝く星)と言われ職人工芸の店を開くことを促進し、これらの職人工芸店は、町の行政地域内で職人工芸の学校となり、町のメインストリートは"Strada degli Artieri(職人・工芸家の道)と呼ばれるようになりました。

ポリコーロ:
豪壮な中世のお城の周りの住居集落から成り立つ所で住民の数も多く、近年になって町と呼ばれるようになりました。ギリシャ植民地時代にはへラクレアと呼ばれ、数年前まではモンタルバーノ イオニオに属する町でした。町の名はギリシャ語によるもので、"広い土地"を意味しています。

スティリアーノ:
歴史家ペンネッティによれば、町の名は、この一帯の大地主であった貴族" Hostilius" に因るものです。教会はクリスチャンの人々によって建てられ、一方城は領主によって造られました。1664年に町は地震で崩壊しましたが、間もなく再興されました。現在、スティリアーノは、その価値ある歴史的な遺産および、地理的利点もあって美しい山々を散歩することができる地となりつつあります。

文・写真提供バジリカータ観光事務局(APT BASILICATA)

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