CHIESA DEL TORRESINO - (C)Archivio Fotografico Turismo Padova Terme Euganee/fotografo:Mattoschi パドヴァ観光ガイド
パドヴァの街と県は、ラグーナとプレアルプスの中間にあるヴェネト平野の中央に位置しています。 文化・経済の発達した北東の地としても知られるパドヴァは、芸術・文化・伝統に満ちた歴史の地でもあります。
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恐らく、サント・アントニオの町としてよく知られるパドヴァは、3千年の歴史を持つ芸術の町でもある。
町の中の古い地域には、町の文化・経済が最も盛んであった13世紀から15世紀の重要建造物・記念碑が建ち並び、その余韻を残している。
中世に造られた壁、偉大なる文明そして宗教施設、ヨーロッパ中から教員と学生が集まったイタリアで2番目に古い大学(1222年設立)、ジョットとその弟子、グアリエント、アルティキエロ、ジュスト・デ・メナブオイ等による素晴らしい壁画、またアンドレア・マンテーニャやドナテッロの作品など、パドヴァは歴史と芸術に満ちている。

ローマ・初期キリスト教時代のパドヴァ パドヴァの町の中に見るローマ時代および初期キリスト教の足跡:
大聖堂地下に眠る異教の品と思われるモザイク、コロン、テラコッタの壺、石器、牛・馬の骨。
現在市立エレミターニ博物館(Museo Civico agli Eremitani)に保存されている幸福の女神への碑文が刻まれたビザンチンの柱頭。
司教区博物館(Museo Diocesano)に保存されている石、十字架。

サンタ・ソフィア教会
大聖堂とサンタ・ジュスティーナ教会と並ぶ、パドヴァにて最も古いキリスト教会。もとは異教の寺であったと言う研究家もいる。教会建物の基盤は、ロンゴバルダ-カロリンジア時期に造られたと見られている。
1123年のシニバルド司教の許可証によると、1106年の時点ですでにサンタ・ソフィアを奉る教会が存在し、その後修復がなされたと記録されている。
1123年~1127年の間に建物の約1/3が完成。ファザードは、中央下に5つのアーチ、上部は2つのコロン、円花窓、二連窓、窓、棚状の小さなアーチで装飾されている。また、教会内部の壁柱・コロンの柱頭とアプシスは、非常に特徴的である。

サンタ・ジュスティーナのサンタ・マリアとサン・プロスドチモの小礼拝堂
テオドリック皇帝(6世紀)の行政長オピリオーネによって建設が進められた、パドヴァで最も古い建造物。残念ながら、1117年に起こった地震によって司教サン・マルティーノの人生を描いたモザイクは破壊されてしまった(残骸は、現在サンタ・ジュスティーナ修道院内に保管されている)が、建物は第二次世界大戦後に修復された。 サンタ・ジュスティーナで最も重要な遺跡としてサン・プロスドチモの墓(墓には5・6世紀の石切技術による小盾が描かれている。
サン・プロスドチモは3世紀後期から4世紀前半にかけて人生を送った司教と云われている。サンタ・ジュスティーナの歴史の中で最も裏づけがしっかりとした遺跡といえよう。)がある。 サンタ・ジュスティーナ内には、6世紀に造られたオピオーネ聖堂の装飾扉がある。(月桂冠下の2つの十字架には、オメガとアルファのギリシャ文字がたずさわっている。両方の十字架にこの文字が記されているが、一方は文字が片方とは逆に記されている。それぞれ、死から人生の風景と全世界の主キリストを意味している。)

アンテノリの墓
パドヴァの町の創設者アンテノレの伝説は、詩人ヴィルジリオの書いたトロイの神話"エネイデ"が起源となっている。トロイのアンテノレは戦いに敗れた後、単独で海を放浪し、ティマヴォ川の水源に辿り着いた後、パドヴァの町を築いた。
1274年杉と鉛の入った大理石の棺が発見され、アンテノリの伝説が騒がれるようになった。この棺の発掘委託者ロヴァト・デ・ロヴァティは、トロイの英雄の遺体を発見したと思い込んだ。
1334年"トロイの血"に栄誉をささげるために、アンテノレ広場に安置された棺が開かれた。この際、詩人に影響を与えたアンテノリの金の刀が発見され、パドヴァの民はこの刀をアルベルト・スカリエロに捧げた。
現在でも真実は謎に包まれたままのアンテノリの伝説であるが、1985年に行われた修復作業の結果でも伝説と真実の一致を証言することはできなかった。
アリゾナ州トゥクソン大学の物理学部にて行われた骨の検査結果からは、遺体は3世紀から4世紀のものという結果となった。アンテノリの体と思われていた遺体は、その時代の技術としてはかなり巧妙な死体の防腐処理(恐らくアロエ・エゴ・ミルラの樹脂などを使用した)が施されており、その他武器での負傷がみられることから、ある地位を持つ戦士であったのではないかと考えられている。

サン・ロレンツォ橋(大学橋)
良い状態が保たれ、パドヴァで最も有名なローマ時代(B.C.40~30年)の橋。
この橋は、11世紀から15世紀までの間サント・ステファノ橋と呼ばれていたが、16世紀、ベネディクト派のサン・ロレンツォ修道院が隣接しているということから、サン・ロレンツォ橋と改名された。

ローマ劇場
パドヴァの中で最も古い建造物の中のひとつとして知られる。多少ながら現在でも見ることができる。
紀元前1世紀、パドヴァの町が最も華やかであった頃に建設されたと考えられている。
このパドヴァの円形劇場は、ヴェローナのアレーナによく似ており、外壁部は楕円形の壁と80のアーチが円形に連なっている。
壁内部はドーム型ボールトが連なり、その上に客席階段があった。 天候と人災によって破壊したこの劇場は、1909年パドヴァ市の所有物となり、劇場の建材として使われていた石は、住宅・建造物の建設に再利用された。

コロンナ・マドンナ・デイ・ノーリ:
1954年ガリバルディ広場に設置された円柱碑。マドンナ・デイ・ノーリ像は17世紀アントニオ・ボナッツァの作品と考えられている。
円柱部分は、市立物館に保存されていた状態の良い断片を利用して作られた。その他、カルソ・トリエスティーノから運んだアウリズィーナ石(薄・堅石灰)が使用されている。

資料提供:パドヴァーテルメ・エウガネ観光局

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